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Channel: ENDO Yasuyuki(@eyasuyuki) - Twilog
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8月25日のツイート

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RT @hamatch2: 37映画「野火」は、原作の表層を貫き、存在の根源=闇の奥へと見る者を引きずり込む。単なる力ずくの荒技ではない、原作への畏敬と洞察力がこの映画を産んだ。田村の前で燃え続ける野火。それは、救いでも罰でも狂気でもなく、ただそこにある。その炎は、今まさにぼくたちの前で燃え続けている。(了

posted at 04:56:58

RT @hamatch2: 36塚本監督は、田村に、いかなる救いも託してはいない。書斎から窓外に目をやった田村の前に広がった炎。それは、あの悪夢のような彷徨が、今も終わることなく続いていることを示している。それが、この世界のありようであり、人が人である限り、その炎から逃れる術はないのだ。(続)

posted at 04:56:41

RT @hamatch2: 35では、田村は、「ひかりごけ」の船長のように、あるいは大岡自身が示唆したように、キリストになったのか。それもちがう。田村は、神にも天使にもキリストにもならなかった。そのすべてを拒絶し、最初から最後まで、ひとりの人間であり続けた。すべての行為を人間として選びとり、実行した。(続)

posted at 04:56:34

RT @hamatch2: 34最後に物語は暗転し、田村は自宅に戻っている。ここは、精神病院を経由して田村が家に帰った、と解することも無論可能だが、ぼくはその解釈はとらない。書斎で机にうずくまる男は、ついに狂うことのできなかった男、最後まで狂気の世界に身を投じることなく、この世界に戻ってきた男なのだ。(続)

posted at 04:56:26

RT @hamatch2: 33では、映画「野火」の田村はどうか。最後に中松と対峙し、銃を向けて以降の田村の記憶は、混沌と断絶の中にある。だが、少なくとも田村は「お前もな、絶対俺を食うはずだ」という永松が最後に吐き捨てた言葉に対し「俺は喰わなかった」という自己弁護の言葉を、いっさい口にしていない。(続)

posted at 04:56:08

RT @hamatch2: 32おのれに赦された安寧=倫理の拠りどころとした。武田泰淳は「ひかりごけ」において、田村のその精神的欺瞞を突いたのであるが、大岡は「野火」で、そのような欺瞞によってしか自分を救えなかった男を描き、それを、キリスト的な全的救済に対置させた、と解することもできるのではないか。(続)

posted at 04:55:58

RT @hamatch2: 31この時点で読者は、この手記が、精神病院に収容された〝狂人〟の手によるものであったことを知らされる。天使=怪物と化した田村は、人に戻ることを拒絶し、そのまま〝天使〟の住まう世界を自らの住処(すみか)とすることを選んだ。そして、「肉はたしかに食べなかった」という最後の記憶を(続)

posted at 04:55:55

RT @hamatch2: 30食べたなら、覚えている はずである」と手記に記すのである。ここで「食べなかった」と田村が言っているのは、普通に読めば、単に永松の肉を指していると解すべきだが、田村がそれを自身の過去の行為にも敷衍して「私は人肉を食べなかった」と主張しているようにも読めてしまう。(続)

posted at 04:55:47

RT @hamatch2: 29だが、田村はその重さには耐えられなかったのだ。代わりに田村は、神の怒りの代弁者としての「天使」=神と人との間に作られた怪物となることを選び、その結果として永松に銃を向ける。そして「この時私が彼を撃ったか どうか、記憶が欠けている。しかし肉はたしかに食べなかった。(続)

posted at 04:55:29

RT @hamatch2: 28大岡の言葉は、船員の肉を食った船長を断罪する裁判に、救済者キリストの受難劇を重ねあわせようとした「ひかりごけ」との関連性においても興味深い。これは、何を意味するのか。田村は、戦場のキリストになり得たかもしれない、いや、キリストになりそこねた男だということではないか。(続)

posted at 04:55:19

RT @hamatch2: 27対する大岡は「実際食人自体はそれほど主人公がよけて通らなければならないかどうか疑問です」(「『野火』の意図」)と語る。さらには、戦場において「進んで人肉を喰うのは、むしろ解放になるのではないか、その解放の保障者とし て、キリストを考えられないか、ということです」と言う。(続)

posted at 04:55:08

RT @hamatch2: 26武田泰淳らしい物言いだが、「野火」の本質は、田村の〝人肉食〟という行為とそれをめぐる観念の葛藤ではなく、その行為に到る田村の彷徨のありようそのものの内にある、という指摘は、ことの本質をグサリと言い当ててみせる泰淳ならではの鋭さをもっていると言えるだろう。(続)

posted at 04:54:59

RT @hamatch2: 25泰淳はこんなことを言っている。「『人肉試食』は、世の批評が騒ぎ立てるほど重要なものとは、私は考えない。問題は、人肉試食を導き出さずにいられなかった『私』の純粋な歩き方にある」(「文人相軽ンズ」)――「『私』の純粋な歩き方」という表現は、いかにも「目まいのする散歩」の人(続)

posted at 04:54:50

RT @hamatch2: 24あるいは、マンガ「ジャングル大帝」の、恐らく手塚治虫にしか描き得なかっただろう結末と、釈迦牟尼の前世譚である〝捨身飼虎〟との相関などに言及しながら、〝食う〟という行為がはらむ根源的な問いについて考え尽くしたい欲求に駆られるが、さすがにそれは収拾不能の事態を招きかねない。(続)

posted at 04:54:38

RT @hamatch2: 23たとえば、ここでぼくは、泰淳の「ひかりごけ」から野上彌生子「海神丸」、さらに宮澤賢治「ビヂテリヤン大祭」の「どうしても一つのいのちが入用なときは、仕方ないから泣きながらでも食べていゝ、そのかはりもしその一人が自分になった場合でも敢て避けない」という言葉をめぐって(続)

posted at 04:54:24

RT @hamatch2: 22塚本監督は、ともすれば観念的な解釈論に引きずられがちな小説「野火」の本質を、その最奥部から鷲掴みにして引きずり出す。映画「野火」は、そのまるごとが、これまで誰も試みることがなかったほどに率直で真摯な、小説「野火」を巡る格闘であり、批評なのである。(続)

posted at 04:54:16

RT @hamatch2: 21だが、田村は、泥と血と蛆にまみれたその肉体ひとつによって、この世界に対峙する異議申し立て=批評を発し続けているのだ。塚本監督が映画「野火」で顕現を試みたのは、まさにそのような、この理不尽な世界に対峙し屹立する、絶対的強靭さを帯びた一個の批評としての身体にほかならない。(続)

posted at 04:54:08

RT @hamatch2: 20常に死と狂気の臨界点にいながら死ぬことも狂うこともできない。田村は、この世界が吐き出した違和であり、その代償として、この世界の見聞者となり記録者となる特権的な人間であり続けているのだ。劇中、多くを語ることのない田村は、なすすべもなく状況に翻弄される愚者のようにも見える。(続)

posted at 04:53:57

RT @hamatch2: 19いや、生きることを強いられ続けているのだと言ってもいい。この酷薄苛烈な世界に救いがあるとすれば、それは、死か狂気のいずれかによって、この世界と同化すること以外にはない。だが、この世界から見捨てられ、存在においても意識においても宙づりにされた人間である田村は(続)

posted at 04:53:49

RT @hamatch2: 18生に執着があるのかないのか、何かを悟っているのかいないのか、どこか判然としない人間として描かれている。そして、他の人間や世界そのものから疎外され、自らも常に距離を置き、すべてが一歩遅れていることで、結果として彼は何度も死にぞこない、この世界で生きながらえているのだ。(続)

posted at 04:53:42

RT @hamatch2: 17突き放された田村は、その時点で、戦場において帰属すべき場所を喪い、見捨てられた人間なのだ。田村の彷徨=地獄巡りは、彼がこの世界で帰着すべき場所を喪ったところからはじまっているのである。その田村自身も、なけなしの糧秣であるイモをあっさり他の兵士に渡してしまうなど(続)

posted at 04:53:31

RT @hamatch2: 16確かに、この映画の田村は、存在論的な思惟で物語を埋め尽くしたりしない。だが、田村が常に抱えこんでいる世界との疎隔感(これが、田村の思惟の出発点だ)は、映画では、田村の肉体とその行為を通じて、見事に表現され尽くしている。肺を病み、分隊小屋と野戦病院の双方から疎まれ(続)

posted at 04:53:18

RT @hamatch2: 15「この映画には、大岡昇平と武田泰淳と安部公房がいる」と思い続けていた。では、この映画は、小説「野火」をテクストにした、作品をもって作品を批判する類の作品なのか。そうではなかろう。この映画は、塚本晋也による「野火」だが、その要素は、すべて原作「野火」から抽出されたものだ。(続)

posted at 04:53:09

RT @hamatch2: 14少なくとも、映画の中では、自分が人肉を食したことを知った田村が、何かを吹っ切った人のようにも見えるのである。このように見ていくと、映画「野火」は、小説「野火」に「ひかりごけ」的な批判の視点を導入した映画ではないか、と思えてくる。それこそ、この映画を観ながらぼくは(続)

posted at 04:53:04

RT @hamatch2: 13もがれた肩の肉を、躊躇う様子もなく口に運ぶのであるが、奇妙なのはその後の田村が、肩に重症を負っているようには見えない、ということだ。自分の肉を食った行為が、田村を肉体的に再生させたということなのか、あの負傷の描写そのものが田村の幻影だったのか、単なるぼくの勘違いか……。(続)

posted at 04:52:54

RT @hamatch2: 12これがいかなる解釈によるものなのか、ぼくにはわからない)、その猿の肉の正体を知るのだが、映画の中の田村は、原作の田村のように激しく嘔吐したりはしない。むしろ、目の当たりにする前からその事実を知っていたかのようでもある。さらに、安田が爆発させた手榴弾で肩をえぐられた田村は(続)

posted at 04:52:45

RT @hamatch2: 11そして、最も重要なのは、田村が(自らの意志において)人肉を食べなかった、と自己擁護する場面がまったく見られないことである。〝猿の干し肉〟と教えられた肉を飲み下したあと(宮台真司氏は、パンフに寄せた文章で「田村は最後まで「猿の肉」を食べることができない」と書いているのだが(続)

posted at 04:52:30

RT @hamatch2: 10映画「野火」も、南方の密林という〝密室〟を舞台にした遠大な不条理劇の趣がある。そして、田村が〝インテリ〟であることは示唆されるのだが、彼が、原作のように思惟を巡らしていると想わせる描写はほとんど見られない。むしろその姿は、極限状況での知性の無力を示しているようでもある。(続)

posted at 04:52:15

RT @hamatch2: 9その問いへのひとつの回答として、泰淳は「ひかりごけ」を書いたのである。そして、そういう視点で見ると、映画「野火」は、むしろずっと「ひかりごけ」寄りであるように思えてくる。小説「ひかりごけ」の核心部分は、マッカウス洞窟という閉鎖空間を舞台にした〝戯曲〟として書かれているが(続)

posted at 04:52:03

RT @hamatch2: 8存在していいという自己救済の根拠を、自分は(自らの意志においては)人肉を食さなかった、というおのれの倫理に残されたその一点に見出そうとする。だが、泰淳の文学者としての興味は、その先に向かう。人肉を食べなかった人間ではなく、食べてしまった人間を救うのが文学ではないか、と。(続)

posted at 04:51:54

RT @hamatch2: 7実際に「野火」を読めば、この通りの小説ではないこともわかるのだが、なにしろ「野火」の前に「ひかりごけ」を読んでしまったぼくの頭には、そこから生まれた偏見がこびりついてしまっている。泰淳の言い分もわかるのだ。確かに田村という男は、(殺人まで犯した)自分がこの世界に(続)

posted at 04:51:45

RT @hamatch2: 6その書きぶりは、どう読んでも、好意的と呼べるものではない。たとえば、こんなふうだ。「『野火』の主人公が、『俺は殺したが食べなかった』などと反省して、文明人ぶっているのは、明かにこの種の錯覚のあらわれでありましょう」――これは、あくまで泰淳流の意図的な言いがかりに近く(続)

posted at 04:51:36

RT @hamatch2: 5そして、塚本監督は、その力業とも言うべき仕事を見事にやってのけた。ところで、実をいえば、ぼくと小説「野火」の出会いは、あまり幸福なものではなかった。それは、武田泰淳の「ひかりごけ」を通してであったのである。泰淳は「ひかりごけ」で、わざわざ実名で「野火」に言及しているのだが(続)

posted at 04:51:29

RT @hamatch2: 4だが、まさにそれ故に、小説「野火」では、肝心の田村の肉体が、その思惟のかたまりに隠れてしまい、見えにくいものになっている。「野火」の論者も、形而上学的な存在論というアプローチでの検証に行ってしまいがちだ。映画「野火」がめざしたのは、その隠された肉体の復権にほかならない。(続)

posted at 04:51:24

RT @hamatch2: 3その極限状況の中で、世界と自己存在をめぐって思惟し続ける。その思惟は、言うまでもなく、主人公・田村の肉体を通してなされているのであり、それ故、必然的に〝飢えと人肉食い〟の問題へと固着していく。「野火」という小説を埋め尽くす文字は、その凄絶な思惟の記録といえるだろう。(続)

posted at 04:51:17

RT @hamatch2: 2一言で言えば、映画「野火」は、塚本監督による、大岡昇平「野火」の身体論的受容だ。塚本監督が、身体論的表現の極限としての映画を作り続けてきたことを考えれば、当然の帰結のようにも思えるが、それは、けして簡単なことではない。小説「野火」の主人公は、戦地を彷徨しながら(続)

posted at 04:50:33

RT @hamatch2: 1先々週の金曜、渋谷へ出る機会を利用して映画「野火」を観た。久々のユーロスペース。実は翌日(15日)、塚本監督のトークイベント付き上映があったのだが、自分のタイミングを優先。監督が、本当に撮りたかった映画を撮り、その思いにただ圧倒される体験は、やはり何にも代えがたいものだ。(続)

posted at 04:50:23

RT @harunaka35: きょう25日から「野火」展。 内容は ・塚本監督による想定コンテ ・ダンボール製護送車のできるまでほか、  メイキング写真 ・田村一等兵の衣装&小道具 ・ビルトラウシュ映画祭グランプリ受賞記念のリング ・メイキング映像 など。 pic.twitter.com/FDqKk3fz2l

posted at 04:49:05

RT @MobileHackerz: 以前「ホテルでセクロス生放送」のニコ生ログ mobilehackerz.jp/live/lv9613944 が「性的コンテンツ」としてGoogleから警告されたこともあわせて、システムにより機械的に表現が規制される時代が個人レベルまで到達している実感がある。なんか真面目にディストピアぽい。

posted at 04:48:53

RT @mochan1231: @tim1134(リテラ) 制服向上委員会が「操られている」説に反撃! 「太田さんにはがっかり」「誹謗中傷には負けたくない」 lite-ra.com/2015/08/post-1… @litera_web

posted at 04:46:45

RT @nao0108: 産経の記事、奥田さんやSEALDsに悪意を持って書いているとしか思えない。いつから新聞は権力ではなく個人を批判するようになったんだ?首相のヤジは撤回したからOKというのもおかしな話だ。産経は一刻も早く新聞社の看板を降ろしてほしい…。 twitter.com/sankei_news/st…

posted at 04:45:30


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